・−序章:捨て猫、それは非現実への扉−・
そう、それは今から約8時間前に遡る。
俺―小宮 羽架(こみや はがね)―が人間から悪魔という存在へ"転生"した、その時まで。
その日は平凡な1日だった。
朝起きて、学校へ行って昼飯を友達と食べて、授業中に居眠りをして。
そんな何もない1日に、"あいつ"が割り込んできた。
事の発端はそう、下校の時に見つけた、1匹の薄汚れた猫だった。
―――にー…。
猫の鳴き声。
俺が声の発信源を目で辿ると、俺の進行方向の電柱の横に申し訳なさげに置かれたダンボールが目に入った。
―――捨て猫?
どうせ捨てるならこんな雨風の当たるところではなく物陰に捨てればいいものを。
気が利かないというかなんというか…。
まぁ、自分のペットを捨てる人間という時点でそういう事を期待するのは無駄という事か。
どうせ通り道だ。姿くらい見てやっても文句は言われまい。
俺は通り過ぎざまにダンボールの中を見やった。
1匹の小さな黒い猫。
まさか『不吉だから』なんて単純な理由で捨てられたのか?
だとしたらこいつも哀れな奴だな…。
どっちにしてもうちで飼えるわけでなし、俺はなるべく情が移らないように早々に目を逸らし通り過ぎた。
―――もとい、通り過ぎようとした。
「おい、そこの奴。」
聞き慣れない声がした。
もちろん俺のものではない。
俺は一瞬ヤンキーかその類に絡まれたかと思ったが、そういう奴らにしては声に重みがある。
第一、辺りを見まわしてもそれらしい人影はない。
「どこを見てる?お前の目は節穴か。」
また、声。
しかしやはり人影は、ない。
―――人影は。
気になって俺はもう一度黒猫に目を戻した。
「やっと気付いたか?鈍感な奴だ。」
そこには、声に合わせて口を動かす黒猫がいた。
まさか。
そんなわけ。
一瞬頭が混乱した。
17年間生きてきてこんな事は初めてだ。
いや、本来一生あるわけがない。
俺は一瞬自分の気がふれたかと思った。
しかし…いくらなんでも鮮明過ぎる。
そんな俺を尻目に、黒猫は尚も喋り続ける。
「何をぼぅっと突っ立ってる。人が話しかけているんだ、何か反応を示すくらいしたらどうだ?」
嘘をつけ。
話しかけてるのは人じゃなくて猫だ。
いや、今はそんな事はどうでもいい。
きっとこれは悪い夢か何かだ。
俺は自分の頬を…。
「つねっても無駄だぞ。要らぬ痛みを味わうだけだ。」
猫に止められた。
俺は頬まで持っていっていた手をぶらんと下ろした。
どうやらこれは夢でもないらしい。
猫の話は続く。
「まあいい、話す気がないなら私の用件だけでも聞け。簡潔に言ってやる。お前、悪魔になれ。」
何を言ってるんだこの馬鹿猫は。
悪い冗談もたいがいにしろ。
いや、そんな事を言ったらこの状況自体悪い冗談なのだが。
しかし、俺が悪魔になるというのは…。
俺は出ない声を無理矢理絞り出して猫に問う。
「ま…待て。話が理解できない…。俺が…悪魔に…?そもそもお前は何もんだ…?」
俺の質問に、猫は一瞬目を細めて俺を見る。
まるで飲み込みの悪い生徒に教師がそうするように。
少々腹が立ったが仕方ない。
猫の説明を待つ。
「ならば説明してやろう。本来話すのはあまり得意ではないのだがな。」
内心他の猫よりよっぽど話好きだぞと言ってやりたかったが、状況が状況なので踏み止まった。
そもそもこのまま説明されないで問答無用に何かされるのはごめんこうむりたい。
「私は悪魔に使役され悪魔に仕える、いわゆる"使い魔"という存在なのだ。今はこの猫の体を借りているがな。」
ああ使い魔ね。
そういえばゲームでそんなのが出てきたな。
しかし現実にそんなものがいるという話は聞いた事がない。
こいつは一体何を言っているんだ?
「そして今私は私を使役するべき悪魔を探している。それというのも以前私を使役していた悪魔が消滅してしまったからなのだが…その話は今は関係ない。」
ごめんなさい、そんな事言ったらあなたが話している事まるっきり俺には関係ないの。
心の中でそんな事を言いつつ、その"使い魔"の話に耳を傾ける。
この際乗りかかった船だ。
「しかし大抵の悪魔は既に使役すべき使い魔を所有している。よって新しい悪魔を生み出さねばならない。そしてお前達人間には悪魔に近い思考回路を持った知的生命体という適正がある。」
つまりあれか。
人間は悪魔に近いから悪魔になれますよ、と。
だったら俺じゃなくてもいいわけだよな。
じゃあ俺はこれで失礼しますんで。
そう言おうとしたその時、またしても猫に遮られた。
「話にはまだ続きがあってな。人間の中にも悪魔としての適正…"魔力"を持つ人間とそうでない者がいる。そしてお前はその魔力がずば抜けて高い。まさに悪魔にぴったりの人間というわけだ。」
そう言ってにやりと笑う黒猫。
今の俺の心情を一言で表すと…は?だ。
自分が悪魔に向いてるなどと言われて、素直にはいそうですかと言えてたまるか。
「私の声が届いているのがその証なのだが…な。」
他の人間にはこの猫の声は届いていないというわけか…。
じゃあ何か?俺は端から見たら熱心に猫を見つめる怪しい高校生というわけか?
そんな変人に成り下がっていたのか…。
「とにかく。お前に反論の余地は無い。私に見つかったのを幸と思うか不幸と思うか…。それはこれからの貴様にかかっているぞ。」
そう言うが早いか、猫の体から黒い煙のような物が噴き出し俺の体を包み込んだ。
思わず目を閉じ息を止めても体の中に入りこんでくる…それが感じられた。
そうして体中に煙が行き渡ったと感じ目を開けると…。
―――にー。
猫はひと鳴きし、てこてことどこかへ歩き去って行った。
俺は自分の掌を見つめる。
…なんともない。
やはり夢だったのか?
そう思う俺の背後から、声が聞こえた。
「どう?悪魔になった気分は?」
先ほどまでの重みはいささか薄れていたが、その声は明らかにあの猫の声だ。
俺が慌てて後ろを向くと、そこには黒いワンピースを身に纏った身長150センチ前後の少女が立っていた。
「お前の深層意識をトレースして使い魔としてこっちの世界に顕現したのは良いけど…お前、こんな趣味があったの?」
言ってる意味が良く分からない。
深層意識をトレース?
「お前…さっきの猫か?」
失礼な質問を質問で返す。
口調はがらりと変わっていたが、なぜかそんな気がした。
「ご名答。私達使い魔は使役する悪魔の心理に基いてその体を形作るの。つまり、お前の心の深くにはこんな小さな女の子がいたってワケ。OK?」
なんてこった、これじゃ俺はロリコンじゃねぇか。
というか"使役する悪魔の心理に基いて"で"俺の心の深くには"って事は、俺は悪魔に…?
「俺は悪魔になったって事か?でも何とも無いぜ…体?」
俺の言葉に、使い魔はにやりと笑う。
先ほどの猫の姿が思い浮かぶが、幼い少女の姿でそれをやられると何か違和感が。
「今は何とも無くても…後で分かるわよ、悪魔さん。…私はルファナ。お前の名前は?」
いきなり名前を聞かれた。
相手も名乗ってる事だし、ここは素直に名乗っておくか…。
「俺は羽架…。小宮 羽架だ。」
使い魔ルファナはうんうんと頷く。
「ハガネね…これからよろしく。」
…は?
これからよろしく?
言ってる意味がわかりませんよお嬢さん。
「何間抜けな顔してんの?お前は私を使役する悪魔なんだから一緒にいるのは当たり前でしょ?」
「…はー!?」
それから8時間後。
ここに背中に翼を生やした俺がいる。
傍らにはルファナ。
どうやら夜中にはしっかり悪魔になるらしい。
こうして俺の人間と悪魔を両立する生活が始まった。