・−第一話:LUNACY−・


「で?悪魔になっちまった俺は、これからどうすりゃいいんだ?」

傍らに佇む少女―使い魔に性別という概念があるのか分からないが、少なくとも今の容姿は少女だ―に訊ねる。
なんの理由も無しに悪魔にされたなんて事なら平和な毎日をぶち壊された意味が無い。
いや、理由があれば問答無用に悪魔にしていいなんて事はないが。
俺の問いに、少女は視線は動かさず声だけで答える。

「天使を、滅して。」

いきなり何を。
天使と言えばあれだろう。
一般的な意見で言えば神の使いで人間に幸せをもたらすとか。
それを滅する?
果たしてそんな事をしていいものか。
大体方法も何も分かったもんじゃない。
基本的にこいつは説明が足りない。
そんな俺の心中を察したのか、ルファナが言葉を継ぐ。

「近頃…天使達の動きが活発になり過ぎてる。多分あいつら、神の命で現世に理想郷を創り出そうとしてる。」

いい事じゃないのか?
理想郷というのはつまり、人間にとって最も住み易い環境なのだろう。
それを破壊するなどと、人間側の意見からしてみると愚の極みとしか思えない。
どう考えても悪者だ。
やはり悪魔は悪魔という事か?

「そんな事しちまったらせっかくの"理想郷"が創れなくなんだろうが?もったいねぇ。」

俺の言葉に、今まで虚空を見つめていたルファナの視線がこちらを睨む。
その見た目とは裏腹、心の奥を突き刺すような視線に、一瞬たじろいでしまう。
どうやら俺はこいつらにとって言ってはいけない類の事を言ってしまったらしい。
それでも平静を保ち、ルファナが言葉を返す。

「馬鹿。考えてもみなさいよ。あいつらが創り出そうとしてるのは"苦しみも悲しみも争いも無い幸せだけの世界"なのよ。」

話が見えない。
それのどこが悪い事なんだ?
別にいいじゃないか、それで。
俺の不満そうな顔に、ルファナも僅かに眉を顰める。

「人間ていうのはね、苦しみや悲しみがあるから幸せを感じられるの。幸せだけがある世界じゃ、人間は楽ばかりしてそのうち生きる事にも執着しなくなる。分かる?」

なんとなく、だが話が見えてきた気がする。
確かに想像してみたらそうかもしれない。
例えば俺が学校が終わって開放的な気分でゲーセン行って遊んで楽しいと思えるのは、学校という苦行があるからで…。

「だから、悪魔と天使はお互いに人間界に干渉して調和を保ってきた。悪魔が苦しみや悲しみを担当。天使が幸せを担当、みたいにね。」

そんな干渉がされてたのか、俺達の住んでいた人間界は。
全て世界の摂理とかそんなのかとばかり思っていた。
俺の知らないところで知らない世界が動いていたらしい。

「でも、この頃天使達の動きがやけに活発なんだ。だからそれを阻止しないといけない。でも、悪魔の絶対数が足りない。」

だから増やしたわけだ、俺みたいに。
道理は分かるが…いくらなんでも強引過ぎやしないか?
俺の意見は完全無視か。
でも…もしそうならどうにかしないと大変な事になるのもまた事実のようだ。
俺の心中を察したのか、ルファナがにやっと笑う。

「分かってきたみたいね。それじゃあ早速今から仕事。」

そう言って、急に自らの背に黒い翼を生やす。
その翼でばさり、と夜の闇に身を翻す。

「ほら、何やってんの。行くわよ。」

そんな事を言われても俺にはどうすれば飛べるのかさっぱり分からない。
ぶっちゃけ、この翼が飾り物なんじゃないかと思うくらい翼はぴくりとも動かないのだ。
そんな俺を見兼ねてか、ルファナが溜め息を吐き再び傍らに降り立つ。

「とにかくその翼で飛ぶしかないの。鳥が飛ぶみたいな物理的な飛翔じゃなくてとりあえず飛ぶ事を考えて。そのうち自由に動かせるようになると思うけど、今は飛べれば十分だから。」

簡単に言ってくれる。
そんな事を言われても、と思いつつ自分が飛ぶイメージを膨らます。
飛べ、飛べ、飛べ…。
僅かに、ゆっくりと翼が羽ばたき始める。

「そうそう、やれば出来るじゃん。後でゆっくり教えたげるから、とにかく行くわよ。」

―――ふわり…。

俺の体が宙に浮く。
まだ自由に、とはいかないがこれならなんとかいけそうだ。
俺はその場で軽く弧を描く。

「どうだ、これなら文句無いか?」

自慢げに口にする。
しかしその時ルファナが口にした言葉は、正直言ってぶん殴ろうと思うくらい驚き物だった。

「驚いた驚いた、まさかこんなに上手くいくとはね。やっぱあんた才能あるわ。」

なんだそれは。
もしかして駄目もとでやらせたのか?
万が一駄目だったらどうするつもりだったんだこいつは。
俺の心を読んだかのようにルファナは言葉を継ぐ。

「実は今日は練習の日にしようかと思ってたんだけど、これならほんとに今日中にいけるかも。」

つまりあれだな。俺をひっかけようとしたわけだ。
俺は静かにルファナにデコピンをかました。

「あたっ!何すんの!?」

「こっちのセリフだこのバカ娘!もうなんでもいいから行くぞ!」

そんなやり取りをしている時に、ふと気付く。
得体の知れない感覚が体に伝わっている事に。
俺はルファナに目を向ける。

「…おい?」

ルファナはそれで言いたい事は伝わったとばかりに頷く。
さっきまでのふざけた表情とは違う、明らかに強張った面持ちで。

「気付いたのね?やっぱあんた才能ある。才能あり過ぎて…気付かれたわ。見て。…お出まし。」

そう言ってルファナは虚空を指差す。
夜の闇の中、その場だけ昼を取り戻したかのような光。
その光は徐々に光量を増し…目の前に現れた時、それは人の形をした人にあらざる者だった。
背に純白の翼を生やした、そう、それはまさに…。

「天…使?」

傍らのルファナに目を向ける。
少女は黙って頷く。

―――天使を、滅して。

ルファナの言葉がフラッシュバックする。
視線を天使へと戻す。
純白の翼に、金色の瞳の男。
この天使を、滅する…。
一体どうやって?
俺はその方法を何一つ知らない。
それに対し、この天使は…。

「はじめまして、悪魔さん。ふふ、天使を見るのは初めてかな?」

と余裕の笑みをこぼしている。
その笑顔の裏に、明らかな敵意を感じた。
―――やって、やろうじゃないか。
俺の心の中で、何かがメラメラと燃え始めた。
悪魔の仕事が天使を滅する事だというのなら、遠慮は要らない。
跡形も無く、消してやる。
知らず知らずのうちに俺の口は邪悪な形に歪んでいた。

「あん…た?」

ルファナが俺の顔を覗き込む。
俺は敢えてそれを無視し、あくまで冷淡に天使へ告げる。

「悪いが消えてもらえるか。お前に構ってるほど俺は暇人じゃない。」

次の瞬間、俺の体は爆ぜる様に天使へと飛翔していた。
出来立ての悪魔と油断していたのであろう天使の顔は、驚きに崩れていた。

「くくく…はぁっはっはっはっ!」

その時から、俺の心は本物の『悪魔』に蝕まれ始めていた。